あったはずのhometownと、あり得ないマルチエンディングに向けて

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[MARU-058] dj newtown - cutegirl(.jpg)

1990年生まれのdj newtown君は僕と5つ違いで、かつ同郷なんです。もちろんお互いは全然面識ないし、細かいところは全然違うけど。自分はいわゆるJR沿線でnewtown君は地下鉄沿線(神戸および関西では、利用する電車でおおざっぱな文化層が分けられる)の住民だし、学校も全然違う。もちろん俺には才能ないし、あんまライナーで自己アピールするのもちょっと浅ましいよね。で、逆に共通だなあ、地元の人だなあと思っちゃうのが、彼が「KOBE」という言葉を発する時、そこにはあったはずの「神戸」と現実の「神戸」っていう街の二重性が表れてると思うんだよね。
gottosさんは1997と2005の接続について書いてたけど、自分はやっぱり神戸は1995の出来事の影響がめちゃくちゃでかかったと。newtown君はおそらく当時5歳なんで覚えてはいないと思うんだけど、その後のなりゆきだけでも十分で、あのときから神戸って街は「本来だったらありえた街」と「現在の街」というギャップにいつも苛まれることになった。これは何処だってそうだ俺の街だって、って言うかもしれないけど、「あの頃はよかった」っていうノスタルジーに回収されないで、あったはずの「現在」がそのまま並列された形で意識されてる街って当時(これは後述)ほとんどなかった。

多分newtown君もそうで、神戸に対して愛着と同時に「もうちょっとこうなはずだ」っていう願いもあると思うんだよね。一応オシャレな街といわれてるけど、ならもうちょっとアーバンにとか、独自文化があってもいいだろとか、せめてjet setがなくならない程度にはクラブ文化があってくれよっていう現実とか。おそらく神戸住民のほとんどはそんな「あったはずの神戸」と現実を二重写しにして、多元的な、ある意味マルチエンディング的な想像力を働かせて過ごしていたし、現に今も過ごしている。
例えば同じ神戸出身者には、newtown君の9コ上には西尾維新がいて、その7つ上には清流院流水、さらに4つ上には涼宮ハルヒ谷川流(西宮だけど)がいる。って書いたら、なんか想像力のあり方の説明に、説得力がある気がしない?wで、彼らが出てきたのが、ちょうど日本全体が「失われた10年」なんて言われたりした頃で、全国的にこの「あり得たはずの国」みたいな多元的想像力を欲してた時期っていうのが、自分の見立てだったりする。(蛇足ながら自分はnewtown君と西尾維新の間で、ちょうど神聖かまってちゃんと同い年。TSUTAYAでビートルズやセックスピストルズを借りて聞いた最初の方の世代w)
彼らは小説家だけど、newtown君は音楽の人で、それの違いっていうのはあるけど、イマジネーションで組み立てられる小説より、むしろ音楽はもっとリアルに届く力があると思う。newtown君のcut upの音の断面からはそんなあり得たはずの「神戸」の世界が見える。いや逆か、newtown君の音楽が、そのあり得たはずの世界の音楽で、それが現実の世界に届いていく、切り開く力を持って届くんだ。例えばアーバンとアイドルとアニメが並列してクールに語られる世界とか。そしてそれは現実化しつつあるように感じる。