今週のお題 儒教と「近代」

これはカンフーパンダの一言
The past is history, the future is a mystery, but today is a gift—that’s why they call it ‘the present’
「過去は歴史、未来は未知、そして今は贈り物。言うでしょう『プレゼント』と」
現在(プレゼント)を心に留めれたら、幸せなんでしょうがねえ。

この言葉はカンフーの老荘思想的な世界観が反映されているのですが、今回したいのは儒教の話。
諸星大二郎の「孔子暗黒伝」きっかけで、呉智英なんかを読んだりして、昔は儒教なんて、東洋の人智主義なんて旧世代の遺物だろ〜、なんて思ってたのですが、原典を読んだりするとそんな物ではないのだな、と。根っこに文化主義なんてもってくるあたり政府に取り入るイベントコンサルみたいなうさんくさい人っぽくて好感ももてるしw(それも「滑稽」によって描かれているけど、あながち間違いではない)

ただ面白いのは、ここに描かれた「封建主義」の理想が、近代主義にたいして全く逆だと言うことなんです。

例えば、「史記」では孔子が大史に任命されたとき、

「商人は掛け値をしなくなり、男女は別別に道を歩くようになり、道に金品が落ちていてもこれを黙って拾う者はいなくなった」と述べられています。
これは近代的な、資本主義においては全く対称的です。これはフィクションであるとの指摘もありますが、ようするにこれが全面的に肯定されるからこそ、このようなうそをついたともいえるでしょう。

「商人は掛け値をしなくなり」
資本主義では「掛け値」はむしろ尊重されます。というか、掛け値の計算方法が簿記によって成立したこと(複式簿記)によって、資本主義は準備されました

「男女は別別に道を歩くようになり」
市場では男女の混交はむしろ尊敬されます。今でもマーケティングでの恋愛、異性間の意識なんてのは常套句でしょう。

「道に金品が落ちていてもこれを黙って拾う者はいなくなった」
資本主義は「落ちてる金は拾う」主義です。たとえばゴールドラッシュや、石油といった「誰の物でもない」ものは自分の物にしていい、というところから現代の大企業はかなりえげつない搾取をして成り立ってます。そもそもネイティブアメリカンの土地だったりとかね。


また、このような倫理観は、悪に対しても対称的です
陽貨第17-24より

子貢問曰、君子亦有惡乎、子曰、有惡、惡称人之惡者、惡居下流而謗*上者、惡勇而無禮者、惡果敢而窒者、曰、賜也亦有惡乎、惡徼以爲知者、惡不孫以爲勇者、惡訐以爲直者、

子貢がお訊ねして言った、「君子でもやはり憎むことが有りましょうか。」先生は言われた、「憎むことがある。他人の悪いところを言い立てる者を憎み、下位に居りながら上の人をけなす者を憎み、勇ましいばかりで礼儀の無い者を憎み、きっぱりしているが道理の分からない者を憎む。」「賜[子貢]よ、お前にも憎むことがあるか。」「[他人の意を]かすめ取ってそれを智だとしている者を憎みますし、傲慢でいてそれを勇だとしている者を憎みますし、[他人の隠し事]あばき立ててそれを真っ直ぐなことだとしている者を憎みます」

ここで、書かれている憎むべき者はそのまま「ジャーナリズム」そのものだといって良いでしょう。一つ一つ取り上げることはしませんが、本来下位であった大衆が、政府を動かす力のきっかけであり、いまでも名目上は管理機関として機能しているのがジャーナリズムです。その振る舞い方が、明らかに論語では嫌悪されています。

と、色々話してきましたが、みなさんは、どちらの倫理観を支持しますか?というのが今回の問いです。理念としては近代的なありかたというのは理解しつつも、体感的には孔子の言うような考え方は共感できる、といったところではないでしょうか。私が逆に奇妙に思うのは、近代的な枠組みで生活している我々が、その倫理観を未だに内在化しえない、ということであったりします。例えばウエーバーなんかは「だからこそ資本主義は発展するんだ」ということを言ったりしていますが。