今週のお題とんねるずのゲームとしての強度

最近、ネット以降のメディアのゲーム性を考える時に、とんねるずのことを考えることが多い。

これは自分だけではなくて、「文化系トークラジオLife」での鈴木謙介(チャーリー)も、「テレビを身体化したとんねるずのようにライブメディアを身体化した人間が現れるかもしれない」と言うことを言っているし、

また、ライムスター宇多丸も今月のBRUTUSや、シネマハスラーにおいて「とんねるずの、テレビ業界的な内輪や約束を『ぶっちゃけ』ていく、というのは後の『ぶっちゃけ』メディアであるインターネットを先取りしていた」ということを語っていた。

自分はそれに全く異論がないし、そこに異論を差し挟む余地もないのだけど、例えば彼らがやったことに、「スタッフを巻き込む」ということがある。本来裏方だった人であるADやD、果ては大道具までを含めてカメラの前で映し出すことによって、「表(タレント)/裏(スタッフ)」という構造をカメラというテレビそのものの機能を使って内側から解体することで、暴力的なまでの強度を生み出すことに成功した(その完成がスタッフをタレント化させた『野猿』であることは論を待たない)。

これは少し過去の話ではあるが、ナイツの塙が「とんねるずの番組はすべて台本で決まっていて、ディレクターが<全て>指示を出している」という発言をして、物議を醸したことがある

http://www.youtube.com/watch?v=LR7iNBxcAeU

一応知らない人に説明をすると「みなさんのおかげでした」には「とんねるずを泊めよう」というコーナーがあり、それはとんねるずが若手芸人などの家にアポなしで入り、縦横無尽に暴れ回る、かつベテランのとんねるずに対し強く言うことの出来ない若手およびその家族はあたふたするという、かつて若手であったとんねるずがそれまであった権威にたてついて成り上がる、という方法を逆転化させた名企画である。(ここにも、反転が存在する。逆張りですな)

ここのコメントは割とナイツ塙に批判的であるが、2ch等ではこの発言を取り出し「アドリブができないとんねるず」や「そもそも本人に何も芸がない」等の批判合戦(そもそも2chの「お笑い」板は芸人の誹謗中傷しかない、そして驚くほどユーモアの欠如した板なのだけど)を繰り広げていた。

これに対する私の持論は全く逆で「だからこそ良い」という意見を言わせていただきたい。

例えば、「かつてのみなさんのおかげです」の回で「安全地帯の玉置浩二が、サザエさんを歌う」ということがあった。

当時、完全なビジュアルイメージを作り上げていた彼にこのようなことを成功させたのは、間違いなく「台本の力」である。なぜ玉置がこれを歌ったのかというのには「台本があり、それに従った」というエクスキューズが存在したためである。普段は無理なことでも、台本に書いてあることなら、人は従うことが出来るのだ。とんねるずが発見したのはまさにこの「シナリオの力」であった。シナリオから外れてアドリブで笑わせることが「芸」であるとされる時にあって、むしろそれを逆転し「シナリオに従わせる」ことで笑いを作り出す。それこそがとんねるずのつくりだした笑いのパターンである。

そこで先ほどのyoutube映像に戻って欲しい。例えばここで、ディレクターが「蛇にかまれて」という支持がなければ、はたしてそのような「絵」をとることが出来ただろうか、というよりも塙はそのような笑いの取り方ができただろうか。おそらくは不可能であろう。そう振り返ると、この「シナリオ」による笑い、そしてそれを作り出すことに成功したとんねるずの「強度」を知ることが出来るだろう。

だから自分はあえていいたい、「ヤラセがダメなのでない、ヤラセだから良いのである」と。

ただ、この笑いの強度は「優秀なスタッフとの一体感」そして「イメージが確立したタレント」そしてそれらを包括する「テレビという舞台装置」という前提があってこそ可能なものである。これが、例えば映画のような違うメディアであるとそれはまるで強度を失ってしまう(例えば、テレビでは「Aを演じるB」という風に本人のタレント性が強調されるのに対し、映画では「Bが演じるA」という風に主題が逆転する。)そのような場所ではとんねるずの方法論はまったく通用せず、観客に伝わるのは、構造が崩壊した後の「なし崩しのグダグダ感」だけになってしまうのである。「矢島美容室・ザ・ムービー」のこのダダ滑り様は、その見事な論証となっているような気がしてならない。