村上春樹風、村上春樹演説翻訳

http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20090218/1234913290
みなさんにつられて、自分もやってしまいました。


壁と卵

ということで、僕は今日エルサレムへ来た。小説家という、ある意味で嘘のつむぎ手と呼ばれるような立場で。

もちろん、小説家だけが嘘つきというわけじゃない。政治家が嘘つきだってことはみんな知っているはずだし、外交官やミリタリーだってある種の方便として嘘を使う。まるで車のセールスマンみたいに、土建屋や肉屋みたいに。
しかしながら小説家が彼らと違っているところは、誰も、小説家を「嘘つきだ」と言って非難したりしない、ということだ。
なにせ、より大きく上手に、そして巧みに嘘をつけば、その人は公に、または批評家に賞賛されるってこともありうる。なぜそんなことがあるのだろう?

僕なりの答えはこうだ。すなわち、スキルフルに作られた嘘は、いうなればフィクションをでっちあげることで本当のことを示し、小説家は真実を新しい場所に持ってきたり、新しい光に照らし出すことができるということだ。ほとんどの場合、真実をそのままの形で捕まえたり、正確に描写することは不可能だ。だから僕たちは真実をそそのかし、フィクションの場へおびき出したり、フィクショナルな形に変えてまで、そのしっぽだけでも掴もうとするのだ。ただ、それを完全に成功させるためには、まず僕たちのどこに真実があるのかを最初に明らかにしなくてはならない。これが、良い嘘を作るための大事なライセンスだ。

しかし、今日、僕は嘘をつくつもりはない。僕は、出来る限り誠実になるつもりだ。一年に何日かは嘘をつかないと決めた日があってもいいし、そんな日が今日僕にやってきたというだけなのだ。

だから僕は真実を話そうと思う。かなりの数の人々が僕にエルサレム賞を受賞しに行くべきではない、というアドバイスをくれた。もし行くというなら君の本のボイコットを煽動する、と警告する人も何人かいた。

その理由は、もちろん、ガザで起こっているすさまじい攻撃のせいだ。国連の報告によると、封鎖されたガザ地区では、1000人以上もの人々の生命が奪われ、彼らの多くが子供や老人たちのような非武装の市民だった。

この賞の通知を受けてからの長い時間、僕は自分にこう問いかけていた。このご時世にイスラエルへ旅行して文学賞を受け取るのが、果たして適切な行為といえるだろうか。僕は衝突の最中に片方をサポートし、圧倒的な軍事力を棚に上げて国の政策を支持したというような印象をもたれたりしないだろうか、と。そんなのはもちろんごめんだ。僕はどんな戦争も賛成するつもりはないし、どんな国家も支持するつもりはない。ましてや、僕の本がボイコットの対象になるのを見たいはずがない。

でも結局、慎重に考えたあげく、僕はここへ来る決心をした。僕の決断の理由の一つは、あまりにも多くの人達が、僕にそうするなと忠告したことだった。大体、他の多くの小説家と同じように、僕は言われたことの真逆のことをしてしまいがちだ。もしみんなが僕にこう言ったら——特に注意として——「そこに行くべきじゃないよ」「そんなことすべきじゃない」。僕はこうしたくなる。「よし行こう」「やってやろう」これが自分なりの摂理で、みんなはまるで小説家みたいだ、とでも言うんだろう。小説家というのは変な種族で、自分自身の目で見、手で触れない限り、何事も信用しようとしないのだ。

そしてなぜ僕がここにいるのかというと、欠席することよりも来ることを選んだからに他ならない。僕は確かめないよりも自分自身で確かめることを選んだ。何も言わないよりも語りかけることを選んだ。

僕は政治的なメッセージを伝えるためにここにいるわけではない。正しいことや間違っていることをジャッジすることは小説家の最も重要な責務の一つであることは重々承知であるけれども。

しかし一方でどのような形で、どのようなジャッジを下すかはそれぞれの小説家に任されている。僕自身としてはストーリーとして、特に超現実的なストーリーにして組み立てることを好んでいて、率先して直接、政治的なメッセージを伝えるような意図は持っていない。

でもどうか、ごく個人的なメッセージを伝えることを許して欲しい。これから話すことは僕がフィクションを書いている一方でいつも心掛けていることで、それは一枚の紙に書いて壁に貼付けているというよりもむしろ、僕の心の壁にずっと刻まれているようなことだ
「高く頑丈な”壁”と、それにぶつかって割れてしまう”卵”との間に立つとき、僕はいつも”卵”の側にいるだろう。」

イエス、と僕は言おう。たとえ”壁”がいくら正しく、”卵”がいくら間違っていようとも、僕はただ”卵”の側に立ちたい、というだけなのだ。どちらが正しくて間違っているかは他で決めくれればいい、例えば歴史とか時間とかで。もしある小説家が、どんな理由であれ、”壁”の立場で小説を書くようなことがあっても、誰がそんなものに価値を見いだすだろうか?

このメタファーの意味することは一体なんなのだろう?ある意味、とてもシンプルで明瞭なことだ。爆弾や戦車やロケット弾、白リン弾は高く頑丈な”壁”であり、”卵”はその”壁”によって爆撃され、砕かれる非武装の市民だ。これはメタファーの一つの例だけども。

これだけが全部ではなく、この比喩は深い意味を含んでいる。こんな風に考えて欲しい。僕たちは多かれ少なかれそれぞれが”卵”であり、一人一人がユニークで、かけがえのない魂が、壊れやすい殻の中で守られている。これが僕にとっての真実であり、あなた達一人一人の真実だ。そして僕たち一人一人が、多少の程度の違いこそあれ、高い頑丈な壁に立ち向かっている。この壁は「システム」という名で呼ばれている。このシステムは僕たちを守ってくれていると思いがちだけど、時々それは僕たちから生命を引き受け、僕たちを殺し始め、僕たちに他人を殺すようにけしかける。淡々と、効率的に、まさにシステマティックに。

僕が小説を書く理由はたった一つ、個々人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、光に照らしだすためだ。ストーリーの目的とは、システムに対して警告を鳴らし、目を向けさせること、僕たちの魂を、システムの網の目の中に絡み取られ、尊厳を奪われることに対抗するためのものだ。僕は少なくとも、小説家の仕事は個々人の魂のユニークさを示そうとしていると信じている。生と死や、愛などのストーリー、涙をし、恐れおののき、笑いに打ち振るわせるようなストーリーを書くことによって。これこそが僕たちが日々、フィクションをでっち上げるときに真剣に思っていることだ。

僕の父は去年、90歳で亡くなった。彼は教師の仕事をリタイアした、パートタイムの僧侶だった。大学院生のとき、彼は招集され、中国との戦争へと駆り出された。戦後の子供の頃、僕は父が毎朝、朝食の前に仏壇の前で深く長く祈りをする姿をみていた。あるとき僕がどうしてそんなことをするのかときいたとき、父は戦争で亡くなった人の為に祈っているのだと言った。

「私は亡くなった全ての人々に祈っているんだよ。」父は言った。「敵味方の関係なく。」仏壇の前で祈祷の動作をする父に、僕は彼の周りに死の影がつきまとうのを感じた。

父は、彼の記憶と共に亡くなり、僕はもうその記憶を知ることは永遠に出来ない。しかし、彼に潜んでいた「死の存在」は、僕自身の記憶にもあり続けている。それは彼からもらった数少ない、最も大事なものの一つだ。

僕が今日みなさんに伝えたいことはたったひとつ、僕たちみんなそれぞれ、国や民族や宗教を超えて、システムと呼ばれる高い頑丈な壁に直面しているこわれやすい卵という人間であるということだ。どうみても、僕たちに勝ち目はないのかもしれない。壁はあまりにも高く、あまりにも強く、そしてあまりにも冷たい。もし僕たちが勝利への望みを持っているであれば、僕たちはまったくかけがえのない、ユニークな魂というものを信じ続けなければならない。僕たち自身、そして他の人に対しても。そして暖かさというものを。僕たちは魂をつなぎ合わせることで獲得しなければならない。

ほんのちょっとだけでも、考えてほしい。僕たちはそれぞれ、触れることの出来る生きた魂をもっている。それはシステムには決して持ち得ない。決して、システムにつけ込まれるのを許してはいけない。システムに自分の命を預けてはならない。システムが僕たちを作ったのではなく、僕たちがシステムを作ったのだから。

これが、僕がみんなに言いたいことの全てだ。

イェルサレム賞の受賞に感謝します。僕の本が世界の多くの場所で読まれ続けていることにも。そして、今日ここで、こうして話す機会を与えてくれたことに感謝します。