ロックを卒業して、洋楽ロックの名盤を薦めてくるオヤジを黙らせるための5枚の音楽アルバム

今週のお題「卒業」音楽
井出くんが聴くべき10枚の音楽アルバム | 世界中の1%の人々へ

http://www.dakiny.com/archives/music/listen-to-10-albums/

という記事を見た。そして腹が立った。

「井出くんが聴くべき10枚の音楽アルバム」を気持ち悪く感じるポイント - ARTIFACT@ハテナ系
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20120309/idekunalbum

なんなんだこのオヤジ共は。

「洋楽の名盤は基礎教養だよね」「オヤジに話合わせるために音楽を聴け」だぁ?

あげくに薦めるアルバムも。正直いきなり初心者が「imagine」聞いて表題曲以外で感心するか?(正直タルいアルバムだと思う)

『「愛しのレイラ」ってクラプトンがジョージハリスンの奥さんに向けた歌なんすよねえ〜』とか言って欲しいのか?うざっ

とかいう細かいツッコミは置いといて、この記事に対する異様な嫌悪感は

彼らに自分自身の「権威化」の匂いを感じるからだ。ようは「こんなすごいことを知ってる俺等は凄い」ってやつね。

しかもそれらの特権をまるで機会の平等のように語っていて、その実ただのリアルタイム経験の反映だったりするやつ。

こいつらオッサン共がこういうアルバムを薦めてきた時に「はあ、じゃあ自分のおすすめしたアルバムも聞いてくださいよ」といって薦めるアルバムを5枚上げてみた

はっきり言うと、彼らのアーカイブにある種の「偏り」これはつまりロック主義的な聴き方では通用しない名盤を上げて

「本当に音楽きいてるんすかあ?」とやるための意地の悪い選び方である

これは言わば「カウンター攻撃」のための防御カードのようなもので、普通は見せるものではない(こういうとき、ミイラ取りがミイラになることは注意しよう)

ただ、これ自体の音楽の質は文句なく良質であることは保証するし、ほとんど歴史的な名盤であることは疑いない。


1.ネフェルティティ /miles davis

まずはオッサン大好きな67年から1枚。

繰り返されるメインテーマの上でリズムセクションがアドリブを繰り返す。このスリル。この緊張感。

そして最もベトナム戦争を描いた音楽作品としての傑作

おっさんでもjazz好き、コルトレーン好きはいるけど、その実「至上の愛」をまるでムード歌謡のように聴き、「泣きのフレーズ」などと言ってるだけだったりする

Super Ape/リー・“スクラッチ”・ペリー

Super Ape

Super Ape

70年代から。

現在でも「ダブステップ」というジャンルが流通しているとおり(音楽としてはかなり遠い)

一度完成された作品に新たに手を加えるという「ダブ」という行為は70年代以降、最も重要な手法であると同時に

現在では標準的な感覚となっている。後のhiphop、クラブミュージック全ての祖

Chronic/Dr.dre

Chronic

Chronic

1992年。クラシック(古典)の名をほしいままにする超名盤。

「ヒップホップなんて何言ってるかわかんないとつまんないし、メロディーもないし退屈」という言葉を引き出せたなら、

そのおっさんはメロディーと歌詞しか聞いていないという証拠を掴んだも同じだ。大いに盛り上がるようなエモーションの流れもないが

ここに詰まってるグルーヴのおいしさに気付かないオヤジの話はきかなくていい

brown sugar/D'angelo

Brown Sugar

Brown Sugar

1995年。これも言わずと知れた超名盤。

このアルバムにはロキノンが言うところの「ロック」以外の音楽が全て入っている。

もし5枚のうち1枚を上げるなら断然このアルバムを推す。

ADEPRESSIVE CANNOT GOTO THECEREMONY /imoutoid

http://maltinerecords.cs8.biz/14.html

最後に00年代から。

鬼才、天才の名をほしいままに、夭折を遂げたimoutoid18歳の作品。

某エロゲーからのサンプリング、アニメ声とおっさんの美意識を逆撫でさせよう。

あったはずのhometownと、あり得ないマルチエンディングに向けて

http://maltinerecords.cs8.biz/58.html
[MARU-058] dj newtown - cutegirl(.jpg)

1990年生まれのdj newtown君は僕と5つ違いで、かつ同郷なんです。もちろんお互いは全然面識ないし、細かいところは全然違うけど。自分はいわゆるJR沿線でnewtown君は地下鉄沿線(神戸および関西では、利用する電車でおおざっぱな文化層が分けられる)の住民だし、学校も全然違う。もちろん俺には才能ないし、あんまライナーで自己アピールするのもちょっと浅ましいよね。で、逆に共通だなあ、地元の人だなあと思っちゃうのが、彼が「KOBE」という言葉を発する時、そこにはあったはずの「神戸」と現実の「神戸」っていう街の二重性が表れてると思うんだよね。
gottosさんは1997と2005の接続について書いてたけど、自分はやっぱり神戸は1995の出来事の影響がめちゃくちゃでかかったと。newtown君はおそらく当時5歳なんで覚えてはいないと思うんだけど、その後のなりゆきだけでも十分で、あのときから神戸って街は「本来だったらありえた街」と「現在の街」というギャップにいつも苛まれることになった。これは何処だってそうだ俺の街だって、って言うかもしれないけど、「あの頃はよかった」っていうノスタルジーに回収されないで、あったはずの「現在」がそのまま並列された形で意識されてる街って当時(これは後述)ほとんどなかった。

多分newtown君もそうで、神戸に対して愛着と同時に「もうちょっとこうなはずだ」っていう願いもあると思うんだよね。一応オシャレな街といわれてるけど、ならもうちょっとアーバンにとか、独自文化があってもいいだろとか、せめてjet setがなくならない程度にはクラブ文化があってくれよっていう現実とか。おそらく神戸住民のほとんどはそんな「あったはずの神戸」と現実を二重写しにして、多元的な、ある意味マルチエンディング的な想像力を働かせて過ごしていたし、現に今も過ごしている。
例えば同じ神戸出身者には、newtown君の9コ上には西尾維新がいて、その7つ上には清流院流水、さらに4つ上には涼宮ハルヒ谷川流(西宮だけど)がいる。って書いたら、なんか想像力のあり方の説明に、説得力がある気がしない?wで、彼らが出てきたのが、ちょうど日本全体が「失われた10年」なんて言われたりした頃で、全国的にこの「あり得たはずの国」みたいな多元的想像力を欲してた時期っていうのが、自分の見立てだったりする。(蛇足ながら自分はnewtown君と西尾維新の間で、ちょうど神聖かまってちゃんと同い年。TSUTAYAでビートルズやセックスピストルズを借りて聞いた最初の方の世代w)
彼らは小説家だけど、newtown君は音楽の人で、それの違いっていうのはあるけど、イマジネーションで組み立てられる小説より、むしろ音楽はもっとリアルに届く力があると思う。newtown君のcut upの音の断面からはそんなあり得たはずの「神戸」の世界が見える。いや逆か、newtown君の音楽が、そのあり得たはずの世界の音楽で、それが現実の世界に届いていく、切り開く力を持って届くんだ。例えばアーバンとアイドルとアニメが並列してクールに語られる世界とか。そしてそれは現実化しつつあるように感じる。

今週のお題 儒教と「近代」

これはカンフーパンダの一言
The past is history, the future is a mystery, but today is a gift—that’s why they call it ‘the present’
「過去は歴史、未来は未知、そして今は贈り物。言うでしょう『プレゼント』と」
現在(プレゼント)を心に留めれたら、幸せなんでしょうがねえ。

この言葉はカンフーの老荘思想的な世界観が反映されているのですが、今回したいのは儒教の話。
諸星大二郎の「孔子暗黒伝」きっかけで、呉智英なんかを読んだりして、昔は儒教なんて、東洋の人智主義なんて旧世代の遺物だろ〜、なんて思ってたのですが、原典を読んだりするとそんな物ではないのだな、と。根っこに文化主義なんてもってくるあたり政府に取り入るイベントコンサルみたいなうさんくさい人っぽくて好感ももてるしw(それも「滑稽」によって描かれているけど、あながち間違いではない)

ただ面白いのは、ここに描かれた「封建主義」の理想が、近代主義にたいして全く逆だと言うことなんです。

例えば、「史記」では孔子が大史に任命されたとき、

「商人は掛け値をしなくなり、男女は別別に道を歩くようになり、道に金品が落ちていてもこれを黙って拾う者はいなくなった」と述べられています。
これは近代的な、資本主義においては全く対称的です。これはフィクションであるとの指摘もありますが、ようするにこれが全面的に肯定されるからこそ、このようなうそをついたともいえるでしょう。

「商人は掛け値をしなくなり」
資本主義では「掛け値」はむしろ尊重されます。というか、掛け値の計算方法が簿記によって成立したこと(複式簿記)によって、資本主義は準備されました

「男女は別別に道を歩くようになり」
市場では男女の混交はむしろ尊敬されます。今でもマーケティングでの恋愛、異性間の意識なんてのは常套句でしょう。

「道に金品が落ちていてもこれを黙って拾う者はいなくなった」
資本主義は「落ちてる金は拾う」主義です。たとえばゴールドラッシュや、石油といった「誰の物でもない」ものは自分の物にしていい、というところから現代の大企業はかなりえげつない搾取をして成り立ってます。そもそもネイティブアメリカンの土地だったりとかね。


また、このような倫理観は、悪に対しても対称的です
陽貨第17-24より

子貢問曰、君子亦有惡乎、子曰、有惡、惡称人之惡者、惡居下流而謗*上者、惡勇而無禮者、惡果敢而窒者、曰、賜也亦有惡乎、惡徼以爲知者、惡不孫以爲勇者、惡訐以爲直者、

子貢がお訊ねして言った、「君子でもやはり憎むことが有りましょうか。」先生は言われた、「憎むことがある。他人の悪いところを言い立てる者を憎み、下位に居りながら上の人をけなす者を憎み、勇ましいばかりで礼儀の無い者を憎み、きっぱりしているが道理の分からない者を憎む。」「賜[子貢]よ、お前にも憎むことがあるか。」「[他人の意を]かすめ取ってそれを智だとしている者を憎みますし、傲慢でいてそれを勇だとしている者を憎みますし、[他人の隠し事]あばき立ててそれを真っ直ぐなことだとしている者を憎みます」

ここで、書かれている憎むべき者はそのまま「ジャーナリズム」そのものだといって良いでしょう。一つ一つ取り上げることはしませんが、本来下位であった大衆が、政府を動かす力のきっかけであり、いまでも名目上は管理機関として機能しているのがジャーナリズムです。その振る舞い方が、明らかに論語では嫌悪されています。

と、色々話してきましたが、みなさんは、どちらの倫理観を支持しますか?というのが今回の問いです。理念としては近代的なありかたというのは理解しつつも、体感的には孔子の言うような考え方は共感できる、といったところではないでしょうか。私が逆に奇妙に思うのは、近代的な枠組みで生活している我々が、その倫理観を未だに内在化しえない、ということであったりします。例えばウエーバーなんかは「だからこそ資本主義は発展するんだ」ということを言ったりしていますが。